hiro-ashのカテーテル・アブレーション体験記

とりあえず体験記を書こうと入院2日前にブログを始めました。退院後は経過報告および日々の仕事などであったことをあくまで事実を中心に綴っております。※このブログの内容はあくまで個人の感想です。

少し落ち着いてきたので…

前回エントリーは一言だけだったのですが、今までの流れでお分かりの方は察して頂けると思います。あの日、父が他界いたしました。

土曜日に意識がなくなったとの連絡があり、妻と子供たち、妹とその子達と一緒にお見舞いに行き、翌日は母と二人でベッドの横に付き添い、良くも悪くも小康状態にあったので、長丁場になるかなと母と話していた矢先に、あまりにも突然に永遠の眠りについてしまいました。

母は、土曜日に「後悔したくないから、今日は病院に泊まるわ」と父に寄り添って一晩過ごしました。孫達にも会えたし長年寄り添った妻とも一晩過ごして、納得できたのかなと後から母と話しましたが、あまりにも突然であっけなかったため、私自身は未だその事実を受け入れられていない感覚です。

でも、現実は過酷であり、実感する間もなく「しなければいけないこと」が次から次へと降ってきて、それをこなしていくうちに一週間が経ってしまったというのが今の感想です。

告別式は、想定していた以上の弔問客で斎場がいっぱいになり、父がやってきたことの足跡を感じることができました。火葬後の会食では多くの方から父との想い出を聞くことができました。話を聞けば聞くほど、今の自分が父と同じ道を歩んでいることに、苦笑いするしかありませんでした。

本当に父と私は体型以外はそっくりで、そっくりであるがゆえに父が現役であった当時は衝突が多く、最後には喧嘩別れ同然で家を出た次第です。でも、私が家庭を築き、ようやく仕事も落ち着いて狭いながらも自分の城を持つにつれ、父も次第に認めてくれたようです。入院前に、私の体調を気遣ってくれたり、入院中も意識が混濁しているなかでも私のことははっきり認識してくれたりと妹に嫉妬されるくらい(苦笑)でしたが、結局、目に見える親孝行は何もできないまま、父は逝ってしまいました。

告別式の翌々日、母とお寺にお礼に伺い、その帰り道、私が幼かったとき過ごした地(父にとっては良い思い出と悪い思い出が混じり合った場所だと思いますが)を歩きました。その風景はあまりにもその当時(約30年前)と変わっておらず、その一方で私は大人になり、広かったと思っていたその世界はあまりにも狭く、横にいる母は経過した年数相応に歳を取っていて何とも言えない感覚になりました。

残念ながら、もう父と語り合うことはできません。でも、貴方が生きた証はここにしぶとく生き続けます。貴方の性格上、安心して見守ることはできないと思いますが、とりあえず、見守っていてください。